大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岡山地方裁判所 平成3年(ワ)259号 判決

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

第一  請求

被告は、原告らに対し、各金二三〇〇万円及び内金二一五〇万円に対する平成元年一〇月三日から、内金一五〇万円に対する平成三年三月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

本件は、平成元年一〇月二日午前八時四〇分頃、岡山県浅口郡鴨方町立鴨方中学校(以下「中学校」という)構内の倉庫脇で、三年六組生徒であつた甲野一郎(以下「一郎」という、当時一五歳)が首つり自殺をした事件について、一郎の両親である原告らの訴訟代理人らが、右自殺は一郎が同級生らから受けていたいわゆる「いじめ」を苦にしたことによるものであり、これを防止できなかつた中学校側に教育機関としての生徒に対する学校生活上の安全保持義務及び教育的配慮義務を怠つた過失があると主張して、中学校の設置者である被告に対し、一郎の自殺(自殺が予見不可能としても予備的に「いじめ」により一郎が被つた精神的苦痛)について、原告らと被告との間の教育諸法上の在学契約における債務不履行又は国家賠償法一条一項の過失責任による損害賠償を原告らに対してするよう求めた事案である。

一  争いのない事実

一郎は、原告らの長男として昭和四九年九月二一日に出生し、昭和六二年四月に中学校に入学し、平成元年九、一〇月当時三年六組の生徒であつた。

一郎は、中学校構内で、平成元年九月二六日火曜日の昼休みに同級生の乙山春夫(以下「春夫」という)から暴行を受け、翌二七日水曜日の昼休みにも春夫らから暴行を受け、同日の放課後担任教諭の田尻治に対して右各暴行被害を訴えた。

田尻教諭は、翌二八日木曜日朝始業前に春夫から事情を聴取して暴力をふるわないよう指導したところ、春夫は五校時(五時間目授業)前に一郎に対して告げ口したなどとして暴行を加えた。一郎は五校時終了後田尻教諭を訪ね、泣き伏してその旨訴えた。そこで、田尻教諭は六校時に春夫から再度事情を聴取して暴力をふるわないよう指導した。

翌二九日金曜日朝、一郎は、登校すると言つて自宅を出たが、結局登校しなかつた。田尻教諭は、他の教員一名とともに、午前一一時五〇分ころ原告らを訪問した際、一郎の所在が不明であることを知り、中学校教職員らが手分けをして行方を探索したが、同日中には発見できなかつた。

翌三〇日土曜日午後、一郎は鴨方町引野地区内で同地区の住民に保護され、原告らが引き取つた。その旨の連絡を受けた田尻教諭は、他の教員一名とともに、一郎が検査を受けていた倉敷市玉島所在の藤沢脳外科病院に行き、原告らと会い、翌日話し合うことを約した。

翌一〇月一日日曜日午前、一郎及び原告甲野花子(以下「原告花子」という)は、中学校に出向いて田尻教諭及び校長と話し合つた。

翌二日月曜日午前八時二〇分頃、一郎は、原告甲野太郎(以下「原告太郎」という)に校門の前まで付き添われて登校し、一旦一人で三年六組の教室に入つた後、午前八時四〇分頃中学校構内の倉庫脇で首つり自殺をしているのを発見された。

その際、一郎の眼鏡はかなり変形して残されていた。

一郎の死体は解剖には付されなかつた。

日本体育・学校健康センターは、原告らに対し、平成元年一二月二七日一郎の死亡見舞金として金一四〇〇万円を給付した。

二  主な争点

原告らの訴訟代理人らは、一郎が前記一の春夫らによる暴行等のほかにも従前より同級生の春夫を中心とするいわゆる「いじめ」グループから「一郎」の名をもじつて「エイズ」と呼ばれるなどして継続的かつ反復的に暴行脅迫恐喝等を伴う「いじめ」を受けており、事態が相当深刻化していたにもかかわらず、中学校側はこれを理解せず、一郎が担任の田尻教諭に助けを求めた後も、春夫に対して型どおりの指導や及び腰の説論等に終始してこれを放置したため、春夫らが一郎に対し告げ口したなどとして報復的な「いじめ」に及び、これにより重大な精神的苦痛を被つた一郎が所在不明となつた後自殺に走つたものであるから、被告は、教育機関としての生徒に対する学校生活上の安全保持義務及び教育的配慮義務を怠つたものとして、一郎の自殺(自殺が予見不可能としても予備的に「いじめ」により一郎の被つた精神的苦痛)について、原告らと被告との間の教育諸法上の在学契約における債務不履行又は国家賠償法一条一項の過失による責任を原告らに対して負う旨主張する。

これに対し、被告の訴訟代理人は、原告主張のような継続的かつ反復的な「いじめ」が行われていた事実はなく、前記一の春夫らによる暴行等は、給食用に食器の片付けの際の些細なトラブルに端を発した突発的な出来事であり、右出来事について、中学校側では春夫やその他関係生徒らから、その心情や家庭環境等に配慮をしながら、事実関係の把握に努めるかたわら、適切な指導を行い、その結果、暴力行為の再発は防止できる状態となつていたものであるから、一郎が春夫の暴力等を苦にして自殺をしたものとは考えられないところであり、また、仮にそうであつたとしても、右経緯からすると、中学校側としては、一郎の自殺を予見し得る状態にはなく、その防止措置をとることも不可能であり、義務違反はなく過失はない旨答弁する。

以上のとおり、本件の主な争点は、春夫らの一郎に対するいわゆる「いじめ」の有無、春夫らの一郎に対する行為と一郎の自殺との因果関係の有無、一郎の自殺又は一郎の精神的苦痛について被告の教育機関としての生徒に対する学校生活上の安全保持義務及び教育的配慮義務違反の有無である。

第三  判断

一  経緯

《証拠略》によれば、次の事実が認められる。

1  平成元年九月二六日前

一郎は、会社勤務の父である原告太郎、肝臓病を患う母である原告花子、姉春子及び妹夏子と同居し、中学校に通学していたが、体格は比較的よい方であつたものの、性格的には内気で気の弱い消極的な少年であつた。中学校では、おとなしすぎるのを教師の側が気遣う以外に格別の問題はなかつたが、親しい友達のいない孤独な生徒であつた。家庭でも、父である原告太郎は勤務時間が不規則で、母である原告花子は病気がちであるなどの事情から、十分な話し相手を欠くような状況にあつたが、従前家出等家庭を著しく心配させるような行動に出たことはなかつた。

一郎は、中学校一年生の三学期に当たる昭和六三年初め頃、特定の同級生らから名前をもじつて「エイズ」などと呼ばれて嫌がらせをされたことがあつたが、これを聞きつけた原告太郎が中学校に出向いて校長に抗議を申し入れ、中学校側で嫌がらせをした生徒及び保護者らに対してやめるよう指導し、それ以降は、一郎に対するその種の嫌がらせは沈静化していた。

一郎は、平成元年四月から田尻教諭が担任する三年六組の一員となり、入学以来はじめて春夫と同級生になつた。

春夫は、一郎よりは体格的には小柄であるが、活発で落ちつきのない性格で、授業中に私語も多く、一部教師に対して反抗的な態度をとる生徒であり、数人の親しい生徒グループの中心的存在であつたが、格別非行等の問題行動があるわけでもなかつた。

田尻教諭は、従前、一郎についてはおとなしすぎるのを気遣つてはいたが、一郎から悩み等を訴えられたことはなく、また、そのクラス内でいわゆる「いじめ」が問題になつたこともなく、その兆候を感じたこともなかつた。

2  平成元年九月二六日火曜日

一郎は、平成元年九月二六日火曜日の給食時、同級生の春夫、丙川松夫及び丁原竹夫らのグループから誘われて一緒に昼食をとつた後、給食の後片付けをする者を一人だけジャンケンで決めようと誘われ、気乗りがしないまま、断り切れずに参加したところ、負けてしまい、春夫らから後片付けを要求されたが、これを拒絶したため、春夫は立服して一郎に対し給食の残りのみかんの皮やパン等を投げつけた。

春夫は、給食後の昼休み時間に一郎を校舎西側階段踊り場に呼び出し、丙川松夫、丁原竹夫らグループ員数人が見守る中で、先ほど一郎が後片付けを拒否したことについて難詰したところ、一郎が「なんで持つていかにやいけんの」などと口答えをしたことから立腹し、「かかつて来い」などと言つて挑発したうえ、一郎が手を振るような素振りを見せたのをきつかけに、一郎に対して数回殴る蹴るなどの暴行を加えた。その際、春夫は一郎を殴つた手の指に痛みを感じ、保健室に行つて湿布をした後、教室に戻り、一郎に対して指に怪我をした旨告げて詰め寄つたところ、一郎が春夫に対して治療費として二〇〇〇円を支払う旨の約束をした。

3  平成元年九月二七日水曜日

春夫は、平成元年九月二七日水曜日の昼休み時間に校舎技術室北側裏に一郎を呼び出し、自分の友人である戊田梅夫、丙川松夫、甲田夏夫、丁原竹夫らが見守る中で、一郎に対して前日に話のあつた二〇〇〇円を要求したのに、一郎がこれを拒絶し、警察に行こうなどと言い出したため立腹し、一郎に対して殴る蹴るなどの暴行のほか、さらに土下座を強要したうえで蹴りつけるなどし、そこへ偶々通りかかつた春夫の友人である乙野秋夫も、事情を聞いて一郎に上履きを投げつけるなどした。

一郎は、同日の放課後午後四時頃、職員室に担任の田尻教諭を訪ね、昨日の給食終了後の昼休みに校舎西側階段踊り場で、四、五人の見守る中で春夫から暴行を受け、その際春夫から怪我をしたとして治療費の支払を要求されたこと、本日の昼休みにも技術室裏に呼び出され、四、五人に囲まれて春夫から金銭を要求され、春夫と乙野秋夫から殴る蹴るなどの暴行を受けたことをはじめて訴えた。

その際、一郎は、田尻教諭に対し、どうしてほしいなどの具体的な要望等は口にすることはなかつたが、同教諭は、一郎が助けを求めているものと理解し、一郎をそのまま帰宅させた後、三年生の学年主任である才野晋教諭に一郎の訴えを報告して相談を持ちかけ、今後の対応を協議した結果、一郎だけではなく、相手方の春夫からも事情を聞いて、適切な指導をする必要があるということになり、田尻教諭は、同日の午後六時過ぎに、春夫の自宅へ電話したところ、不在で連絡がとれず、午後七時過ぎになつて、春夫から同教諭に電話連絡が入つたが、その際、田尻教諭は、そのまま一郎の訴えの件を電話で話をしてしまうと、春夫が一郎に対して直ちに報復的行動に出るかもしれないと考え、直接話し合うのが得策と判断し、春夫に対して明日の朝早めに登校して職員室に話にくるよう伝えただけで電話を切つた。

4  平成元年九月二八日木曜日

田尻教諭は、平成元年九月二八日木曜日の朝に登校してきた春夫に会い、一校時(一時間目)の前に一郎とのことについて事情を質したところ、春夫は同月二六日の給食後の校舎西側階段踊り場での一郎に対する暴行及び同月二七日の技術室裏での暴行の事実は認めたが、治療費を要求したとの点はこれを否定し、一郎の方からその支払を申し出たと主張した。

田尻教諭は、春夫と一郎の言い分が一郎食い違つたことから、さらに一郎からも事情を聞いたうえで、才野主任とも扱いを協議する必要があると考え、春夫に対して今後暴行を振つてはならない旨説論し、一旦解放した。

その直後、教室で、一郎に春夫に対して二〇〇〇円を渡そうと差し出したところ、春夫はこれを受け取らず、一郎に対して告げ口をしたことの報復をほのめかした。

一校時の授業は田尻教諭の担当であつたが、授業中、同教諭は、一郎がしきりに何かを訴えたい表情を見せているのに気付き、近づくと、一郎は、同教諭に対し、教科書に「先生に言う、なぜ僕の名前を出した、僕は殺される、ふくろだたきにあいそうだ」などと走り書きをして差し示した。

そこで、田尻教諭は、一校時終了後に一郎を相談室に呼んだところ、一郎は、一校時の前に春夫から二〇〇〇円の受取りを拒否され、報復をにおわせられた旨訴え、再度同月二六日及び二七日における春夫からの暴行等について詳しく説明したので、同教諭は、二校時にわたつて事情を聞いたうえで、一郎に対して「何か事が起こりそうな場合は、逃げてきなさい。教員室に助けを求めにきなさい」などと言つて、三校時の開始前に教室に帰らせた。

その後、五校時前の昼休み時間に、美術教室前で、春夫は一郎に対して田尻教諭に告げ口したなどとして、無抵抗の一郎に対して殴る蹴るの暴行を加えた。

五校時終了後、田尻教諭は、一郎が職員室に訪ねたきたので、相談室に入れたところ、一郎が椅子に座つた途端に泣き伏して、話を聞くこともできない状態になつたため、同教諭は、春夫から何かされたものと判断し、直ちに春夫から事情を聴取する必要があると考え、泣き伏している一郎を学年主任の才野教諭に任せ、春夫を呼び出して別室で事情聴取を行つたところ、春夫が一郎に対して告げ口をしたとして暴行を加えたことを認めたため、再度、暴力は絶対にいけないことである旨説論した。

一方、才野教諭は、一郎を宥めながら、火曜日の給食後の食器の後片付けのことからはじめて、つい先ほどの五校時前の美術教室前での出来事までの経過を話させ、「春夫には指導をするから、安心しなさい。暴力を振るわれたり、そういうおそれがある時には、職員室のほうに逃げてくるなり、先生に言うなりしなさい」と話しかけるなどしていると、徐々に一郎が落ち着いてきたため、今日のところはこれ以上一郎と春夫を会わせない方がいいと考え、一郎を早めに帰らせることにし、午後三時過ぎ頃校門まで付き添つたが、その頃には一郎は表情も穏やかになり、同教諭が「先生が送つていこうか」と聞いたのに対して「いや、一人で大丈夫帰れる」と返事したので、同教諭は、「春夫に、ちやんと指導するから、安心して明日から出てきなさい。今夜、担任の先生からも、また連絡をするから、家にいなさい」と言つて、一郎の下校を見送つた後、田尻教諭が春夫から事情聴取している場に合流した。

ところで、春夫は、反省するというよりも、悪いのは一郎であるといつた態度であり、また、金銭の要求については、春夫と一郎の言い分に食違いがあつたため、才野教諭は、事実を正確に把握すると同時に、春夫に自分のしたことを反省させる必要を感じ、その場で同人に平成元年九月二六日火曜日からの出来事を順番に紙に筆記(乙第一号証の鉛筆部分)させるとともに、暴力を振るつてはいけないということを繰り返し指導したうえで、午後五時過ぎ頃に帰宅させた。

この間、平成元年九月二七日昼休みの技術室裏での春夫に一郎に対する暴行の際、一郎に上履きを投げつけた乙野秋夫についても、担任教諭の森脇雄治が事情聴取をしたところ、右事実を認めたので、同教諭も右乙野に対して暴力はいけない旨注意し説論した。

さらに、夕方頃、田尻教諭及び才野教諭のほか、生徒指導主事である赤沢秀彦教諭らが一郎と春夫らに対する今後の指導方針について協議し、とりあえず一郎の両親である原告らには田尻教諭から状況説明をし、他方、春夫の保護者には、金銭の要求の有無について一郎と春夫の言い分に相変わらず食違いがあるので、事実関係をもう少しはつきりさせてから指導、監督を依頼しようということになり、田尻教諭は、午後六時過ぎ頃、原告ら方へ電話をし、一郎が電話に出たので、春夫からの金銭の要求の有無について再度問い合わせ、一郎が従来の言い分を繰り返すのを確認した後、さらに、両親に電話を代わるよう求めたところ、一郎は、これを拒否し、春夫との件は親には知らせないでほしいと強く希望し、その理由として、一年生のとき、エイズと呼ばれたことで、父である原告太郎が中学校に怒つて行つて問題が大きくなつたことがあり、そうなるのは困るなどと説明したことから、同教諭は、他の教諭らと相談のうえ、とりあえず今回は一郎の意向を尊重して、原告らに対する事情説明をすることを差し控えることとし、一郎に対し、明日はがんばつて中学校へ来るように励ましたうえで電話を切つた。

5  平成元年九月二九日金曜日

平成元年九月二九日の午前八時前、一郎は、いつもよりやや早めに自宅を出たが、中学校には現れなかつた。

田尻教諭は、同日の三校時終了後の午前一一時三〇分頃一郎が朝から登校していないことを知り、直ちに原告ら方へ電話したが通じなかつたため、午前一一時五〇分頃才野教諭とともに原告ら方に赴き、夜勤明けで寝ていた原告太郎から一郎が不在であることを知らされたが、昨日までの事情については、一郎から両親には知らせないよう強く言われていたことから、特に告げないで、一郎が戻つたら中学校に連絡をするよう依頼したのみで退去し、その後、手のあいている中学校教職員らが鴨方町内において一郎を探し始めた。

午後一時二〇分頃、田尻教諭が原告ら宅に再度電話したところ、原告花子が出たので、一郎が欠席している旨告げた。

その後も、一郎の行方はわからず、田尻教諭は、午後二時三〇分頃、再度原告ら方を訪問し、応対に出た原告花子に対し、昨日までの一郎と春夫らとのトラブルの経過を説明したが、同原告は、「近頃ズボンがよく汚れていたのは、蹴られたあとでしようか」、「暗くなるまでにはきつと帰つて来るでしよう。先生、心配ないですよ」などと言つて、それほど心配した様子は見せなかつた。

一方、才野教諭は、再度春夫を呼び出し、赤沢教諭とともに、嘘をついてはいけないなどと論しながら、さらに昨日までの事情について聴取し、前日作成させた書面を示し、新たに申告し或いは訂正すべき事項を、赤色のボールペンにより加筆訂正させたところ、春夫は、徐々に反省の様子を見せ始め、一郎に対して謝りたいなどと申し出るまでになり(一郎に対して金銭を要求したことは従前同様否定していたが)、午後六時頃に、一応指導は終了し、春夫は帰宅した。

この日は、夜になつても一郎の行方をわからない状態で経過した。

6  平成元年九月三〇日土曜日

平成元年九月三〇日の朝七時頃、田尻教諭は、原告ら宅に電話連絡をとつたが、一郎は帰宅しておらず、依然として行方不明のままであつた。

この日朝から、中学校では、校長以下手の空いている教職員全員が、手分けして、鴨方町内のほか周辺市町村にも出向いて一郎を捜索したが、発見できなかつた。

昼過ぎ頃、田尻教諭及び才野教諭は、再び春夫を呼び、一郎が前日から行方不明であることを告げ、改めて暴力はいけないことであり、十分に自分を戒めて生活するように指導したところ、春夫は「昨夜はよく眠れなかつた」などと反省の気持ちを述べた。

また、同時に、春夫の一郎に対する暴行現場に居合わせた生徒らに対しては、赤沢教諭や担任の教諭らが呼び出して、暴力を見たら、回りで取り囲んでいるのではなく、止めるようにしなければいけないなどと指導をした。

そこへ、午後一時五〇分頃、原告花子から中学校に、「一郎が鴨方町内の引野地区で発見され、今迎えに行つている。心配はないようだ。帰宅すれば、学校に電話を入れる」との趣旨の電話連絡が入り、中学校側では待機していたが、午後三時を過ぎても連絡がなく、田尻教諭が原告ら宅に電話をするなどしていたところ、午後四時過ぎ頃、原告太郎からの電話で、一郎が打撲した頭部の検査のため倉敷市玉島の藤沢脳外科病院にいることが判明し、田尻教諭と赤沢教諭が、午後五時過ぎ頃同病院に行つて、原告らと面会し、その際、原告らから、前日来の状況について、一郎が、前日朝の登校途中に尿意を催して草むらに入つたとき、転倒して頭部を打撲して気を失い、一晩その場で過ごしたが、同月三〇日昼過ぎに発見されたなどと説明をしている旨を告げられた。

田尻教諭らは、原告らから、一郎が額に軽い傷を負つているがたいしたことはなく、検査中であるとの話を聞き、一郎には会わないまま、原告らに対し、今日のところは一郎をゆつくり休ませて、明日家庭訪問をして話し合いたい旨申し出たところ、原告花子が中学校に出向く意向を示したので、明日中学校での面談を約して、午後六時過ぎに退去した。

右病院での検査結果に異常はなく、原告らは、当夜、一郎を自宅に連れ帰つたが、とりあえず休ませるのが先決と考え、行方不明時の状況については詳しく追及しなかつた。

7  平成元年一〇月一日日曜日

平成元年一〇月一日日曜日の午前一一時頃、田尻教諭は、中学校にやつてきた一郎と原告花子に会い、一郎の希望で、同原告が席を外し、同教諭と一郎の二人だけで面談した。その際、一郎は、同教諭に対し、同年九月二九日金曜日の朝に家を出て学校に向かつたが、途中で尿意を催し、道から離れた場所に入つて躓き、頭を打つて、そのままわからなくなり、気が付いたら土曜日であつた旨、前日原告らが同教諭にした説明とほぼ同一内容の話をしたほか、さらに、一郎が倒れていたところ、同年九月三〇日土曜日の午後に、中学校三年生で顔見知りの丙山冬夫が下校途中通りかかつたので、同人に声をかけて助けを求めたが、取り合つてもらえなかつた事実も述べた(この点については後に同人に確認したところ、同人はこれを認め、その際、一郎から「助けてくれ。骨が折れている」などと言われ、電話番号を告げられて連絡を依頼されたが、従前、一郎が「自分は探偵に雇われているんだ」などとありもしないことを言つたこともあり、信用できないと思つていたから、また嘘をついていると考え、取り合わなかつた旨説明した)。

一郎の説明に対し、田尻教諭は、全く信用できないとまでは思わなかつたものの、些か不自然と感じた部分もあつたが、今すぐにそれ以上追及することは適当でないと判断し、一郎に対し、春夫の暴力の件に関し、「全面的に学校が一郎の力になつて守る、もし危害を加えられそうになつたら、直ちに助けを求めればよい、安心して学校に来なさい」などと話し、明日の日曜日には登校するように励ました。

その際、一郎は、別段普段と変わつたところはない様子で、田尻教諭に対して明日の時間割を問いかけ、同教諭が時間割を教え、衣替えになることも説明し、「学校に来にくいかな」と尋ねると、「いや、先生、そんなことはないよ」とはつきり否定し、登校するつもりである態度を見せた。

右二人の面談後、原告花子、一郎、田尻教諭及び校長の四名で話をし、その際、同教諭らは、一郎らに対し、「春夫には暴力行為をしないようにという指導をきちつと行つた。これから何か起こつたときには、必ずこちらが防波堤となつてサポートする、全面的に助けるので、安心して明日から学校へ来て欲しい」旨告げた。

この日の一郎の様子に格別変わつたところはなく、田尻教諭は、一郎が明日から学校に来ることができるものとの感触を持つた。

8  平成元年一〇月二日月曜日

原告らは、中学校側が心配いらないと説明していたことから、一郎を登校させることとしたが、一郎は、平成元年一〇月二日月曜日の朝、制服は身につけてはいたものの、原告太郎が夜勤明けで帰宅してからも、洗面所で吐くような様子を見せ、いつもの登校時間になつてもぐずぐずして家を出ようとはしなかつたので、同原告が「行かなければいけない」と言つて一郎を車に乗せ、午前八時二〇分頃、中学校の校門前まで送り届け、一郎が鞄やナップザックを持つて俯き加減で登校するのを見送つた。なお、同原告は、一郎の様子に通常と特に変わつた点があるとは感じていなかつた。

中学校では、午前八時一五分頃から朝礼が始まつていたが、三年六組で朝礼に出席していなかつたのは、一郎のみであつた。

一郎は、登校したものの、既に始まつていた朝礼の場の方には向かわず、そのまま校舎の玄関に向かつて行くのを、朝礼に参加中の職員が見つけ、田尻教諭に連絡し、同教諭がこれを追いかけて、校舎の階段を上がりかけている一郎に呼び止め、「先生はここにいるから、荷物を教室へ置いて、ここへ戻つておいて」などと声をかけると、一郎は頷いた。その際、同教諭は、一郎の様子に格別の異常があるとは認めなかつた。

田尻教諭は、一郎が戻つてきたら、朝礼には出ないで二人で話をしようと考えていたが、しばらく待つていても一郎が戻つてこなかつたため、教室に上がつてみると、一郎の鞄等はあつたものの姿はなく、校内を探してみたが、見つからず、そのうち朝礼も終わつたので、他の教員にも協力を求め手分けして探していたところ、午前八時四〇分頃、一郎が技術室北西の倉庫裏の梁に紐をかけて首を吊つている状態で発見された。

その際、まず田尻教諭ら二人の教諭がかけつけ、一郎を下ろそうとしたが、重くて思うようにならなかつたため、近くに倒れていた鉄製の脚立を使つて下ろそうとしたものの、二人の力ではうまくゆかないでいたところに、他に教諭らがかけつけてようやく一郎を下ろすことができ、直ちに人口呼吸等の処置を施し、救急車で病院に運んだが、一郎は蘇生せず、午前九時一〇分頃死亡が確認された。

倉庫の梁にかけられた紐は、後に一郎のナップザックの紐であることが確認された。

発見現場には、一郎の眼鏡が変形して残されていたが、他に特段の痕跡も異常もなかつた。

一郎の死体の顔面には、行方不明時に負つた顔の傷以外に、頬に直前にはなかつた痣が存した。

一郎の自殺を知らされた春夫は精神的に非常に不安定な状態となり、このため、教諭二人が付き添つて春夫を保健室で休ませ、午後四時頃、担任教諭らが春夫を自宅に送り届け、春夫の父親に対し、先週の火曜日以来の一連の成りゆきを説明した。

一郎が自殺するまで、一郎の両親、田尻教諭ら学校関係者、同級生らは、誰一人、これを予想したことはなかつた。

9  その後

田尻教諭らは、平成元年九月二六日から、同年一〇月二日までの一連の経緯を報告書にまとめて校長に提出し、右報告書は、さらに被告及び岡山県の各教育委員会に提出された。

中学校側では、一郎の事件を教訓に、生命の尊重、生徒とのコミュニケーションの重要性、生徒の心情理解の手だて、教諭間の連携等について何度か協議検討を行う機会をもうけ、同種事件の再発防止の努力を継続することを確認した。

玉島警察署は、一郎の死は自殺として、一郎に対する暴行に関与した生徒らに対する取調べを行つたが、格別の処分はなされず、岡山法務局の人権擁護課は、一郎の自殺に関する調査を開始し、中学校の教職員に事情聴取を行うなどした後、平成三年三月頃、中学校に対し、口頭で反省を促し善処を求めることを内容とする説示を行つた。

一郎の死亡後、原告らが一郎の勉強部屋を片付けていたところ、ごみ箱や鞄等の中から、次のような紙片が発見された。

「殺される」

「ふくろだたきにあいそうだ」

「おまえたちへんなことになるぞ、高校にかんけいあるかもね」

「先生、あることについてこたえを**あいございませんか。昨日、あることで、先生にきいたもらいました。そのことについて思つていることを先生のほうからおしえてください。けんいんは、9月ごろ、あることで、業は、先生に友達についてきいたことのころに、あることで、業をなぐり、そのこともあり、業はいま、なやんで夜もねつかれません。このとおり、業は、つみもないのにこうゆうことを思つています。このことから、あるあることではなしをきいてもらいたいいんですが、どうでしようか。業もいまなやみ、なやみつづけて、今になつています。両親には、あまり話しをきいてもらえていますが、ぼくはこのとおり友達もできません。話しをきいてほしいのですが、どうでしゆうか、このクラスもこのとおりすごい***くらすである。業は先生たちにはあいてに*されずじまい。もう業は死んだもうがいいのですか。YesNo両親も、いろいろおれはになりましたが、そのうえ、死とは業には思いもこみませんでした。すいませんがほんとうで業はこのよにいきていてよかつたのですか。***た業、なにもできず、ただのでぶと思いますが、そのことをどう思いつきつています、このことでは、たしゆうことの思いでいつぱいです。あのことさまざまなことをやつてまいりました、ほんとうにすいません、9/9昼」(原文のまま、但し*部分は判読不能、「業」は「僕」の誤記と思われる)

以上のとおり認められる。

なお、《証拠略》中には、一郎が自殺するはずがなく、「殺される」との記載のある紙片や、死亡直後の眼鏡の変形及び死体の顔の痣等からすると、一郎は殺されたものと考えているとの記載及び供述部分が存するが、「殺される」との表現は、前記田尻教諭に示した教科書の走り書きにも見られ、必ずしも文字どおりの意味とは解されず、死体の顔の痣も発見時の混乱状態下におけるものと考えられ、前記認定の一連の経緯、一郎の死亡直前の行動、発見時の状況、捜査機関の動静等に照らすと、一郎は自殺したものと認められる。一郎をあえて自殺を偽装して殺害しなければならないような犯人の存在をうかがわせる証拠は全くない。

二  いわゆる「いじめ」の有無

原告らの訴訟代理人らは、一郎が、平成元年九月二六日より前から、同級生の春夫を中心とする「いじめ」グループから、「一郎」の名をもじつて「エイズ」と呼ばれるなどして継続的かつ反復的に暴行脅迫恐喝等を伴う「いじめ」を受けており、事態が相当深刻化していた旨主張するが、前記一1のとおり、一郎が中学校一年生の三学期に当たる昭和六三年初め頃に特定の同級生らから名前をもじつて「エイズ」などと呼ばれる嫌がらせをされたことがあつたことは明らかであるものの、当時、春夫は一郎と別のクラスであり、春夫らのグループが一郎を「エイズ」と呼んで嫌がらせをしたことを認めるに足りる証拠はなく、また、前記の嫌がらせは、原告太郎の抗議により、中学校側で対応した結果、沈静化したことも明らかであり、さらに、平成元年九月二六日より前から、三年六組に春夫を中心とする「いじめ」グループが存在し、右グループによつて一郎に対して継続的かつ反復的に暴行脅迫恐喝等を伴う「いじめ」がなされていた事実をうかがわせるような証拠は全くない。

確かに、前記一9のとおり、一郎の死後発見された九月六日付の長文の紙片中には、文意は必ずしも明快ではないものの「僕は他人に殴られ、悩みがあり、夜も眠れないが、話し相手の友達もなく、先生にも相手にされず、死んだ方がいいのか、この世に生きていてよかつたのか」などと、「先生」に訴えかけるような内容の記載が存在し、このことからすると、平成元年九月二六日より前に(右紙片の九月六日が正確な作成日付なのか、平成元年なのか、それより前なのかは証拠上不明ではあるが)、一郎が誰かから殴られたことがあり、悩みがあり、友達もなく、漫然と死を考え、「先生」にそのことを訴えたい気持ちになり、「先生」宛の手紙様の手記を作成したものの、結局は出さなかつたことが推認できるが、右記載によつても、殴られた相手、その原因内容程度、或いは悩みの具体的内容等は一切不明であるから、右手記の存在も、右当時に原告主張の「いじめ」グループが存在し、右グループにより一郎に対する「いじめ」がなされていたことの証左とはならない。

三  因果関係

ところで、平成元年九月二六日火曜日から一郎が自殺した同年一〇月二日月曜日までの一週間の経緯については、前記一2ないし8のとおりであるところ、春夫の一郎に対する加害行為は、同年九月二六日火曜日から同月二八日木曜日までの三日間に三回にわたり、一方的に殴る蹴るなどの暴行を加えたほか、土下座をさせ、殴つた際の怪我の治療費を持つてこないと言つては難詰し、一郎が教諭に被害を訴えたことに立腹してはさらに暴行を加える(以下「本件加害行為」という)など態様も軽微とはいい難く(一郎が怪我をした形跡はないが)、春夫の最後の暴行の後に一郎が田尻教諭の前で泣き伏して被害を訴えたことから見ても、春夫の暴行等により、一郎が強い精神的打撃を受け、自尊心を甚だしく傷つけられていたであろうことは想像に難くなく、また、田尻教諭に暴行被害を訴えた後にこれを理由に更に暴行の被害を受けたことにより強い恐怖感や無力感、或いは中学校側に対する不信感等を感じたであろうことも想像に難くない。

したがつて、平成元年九月二九日金曜日から同月三〇日土曜日にかけて、一郎が行方不明になつたことについては、一応、一郎がそれなりの説明をしてはいるものの(顔を打撲し、草むらに横たわつているところを丙山冬夫が通りかかつて声をかけた限りでは事実であろうが)、全体として些か不自然であり、前日までの中学校での精神的打撃や、一昼夜にわたつて所在をくらますような原因となるべき事情が他に格別見あたらないことなどからすると、右は、基本的には春夫や中学校からの逃避行動であつたとの疑いが濃い。

さらに、平成元年一〇月一日日曜日を経た後の同月二日月曜日の自殺については、一郎の当時の心境や全貌を解明する手だてはもはやないが、本件加害行為により一郎が受けた精神的打撃、その後の逃避行動と疑われる一昼夜の行方不明、自殺の時期、場所等に加え、他に特段自殺の原因となるような事情は見いだせないことなどをも合わせ考慮すると、通常この程度の事情だけで人が自殺するものとは考え難い(現に、加害者である春夫ら、指導に当たつていた田尻教諭ら中学校側の教職員及び一郎の両親である原告らも、一郎が自殺するとは全く考えもしていなかつた)ものの、他人には計り難い一郎の資質的性格的家庭的素因に加えて、一郎の死後発見された九月六日付の長文の紙片からうかがえる過去の暴行被害や種々の悩み等による心理的負担があつたところに、本件加害行為による苦悩がいわば最後の重圧となつて、発作的に精神の均衡を失い、自殺に踏み切つたものと推測する以外に考えようがないから、本件加害行為は、一郎の自殺の原因の全てであつたとはいえないが、少なくともその直接的な最後の契機乃至原因となつたものと認めるのが相当である。

したがつて、平成元年九月二六日から同月二八日までの本件加害行為と一郎の自殺との間には右の限りにおいて因果関係があるものというべきである。

四  義務違反

1  教育諸法上の在学契約における債務不履行責任

原告らの訴訟代理人らは、原告らと被告との間の教育諸法上の在学契約関係の存在を前提に、その債務不履行を主張するが、次に説示するとおり理由がない。

すなわち、公立中学校における生徒の就学ないし在学関係については、保護者は子女(所定の程度の心身の故障のある身体障害者等を除く)が小学校の課程を終了した日の翌日以後における最初の学年の初めから満一五歳に達した日の属する学年の終りまでこれを中学校に就学させる義務を負い(学校教育法三九条一項)、これに対応して、市町村(特別区を含む)の教育委員会は当該生徒に対して就学校及び入学期日を指定すべきものとされている(同法施行令五条一項、二項)ところから、教育委員会の右就学校及び入学期日の指定によつて当然に発生するものであつて、これによつて、保護者は、当該子女を指定された入学期日以降指定された中学校に就学させるべき義務を負うに至る一方、当該市町村は、教育関係法規に従つて、当該生徒に対し、施設や設備を供して所定の課程の教育を施すべき義務を負うのである、そこには契約の観念を容れる余地はなく、また、このようにして成立した当該中学校設置者と生徒との間の就学乃至在学関係は、その強い公益的性質や当事者の意思にかかわらない画一的性格に照らして、公法上の法律関係であるものと解するのが相当であつて、原則として私法法規が適用される余地はない。

したがつて、原告らの主張する被告の債務不履行責任は、その前提を欠くから、これを認める余地はない。

2  国家賠償法一条一項の過失責任

公立中学校の教員には、学校における教育活動及びこれに密接に関連する生活関係における生徒の安全の確保に配慮すべき義務があり、特に、他の生徒の行為により生徒の生命、身体、精神、財産等に大きな悪影響ないし危害が及ぶおそれが現にあるような場合は、そのような悪影響ないし危害の発生を未然に防止するため、その事態に応じた適切な措置を講ずる義務があるというべきである。そして、国家賠償法一条一項にいう「公権力の行使」とは、国又は公共団体の行う権力作用に限らず、純然たる私経済作用及び公の造営物の設置、管理作用を除いた非権力作用も含むと解するのが相当であるから、公立学校設置者が故意または過失によつて、生徒に対する安全保持義務に違背し、その結果、生徒に損害を加えた時は、当該学校設置者は、国家賠償法一条一項に基づき、その損害を賠償すべき責任がある。

そこで、以下、一郎の自殺乃至一郎の精神的被害について、被告の公権力の行使に当たる公務員である鴨方中学校の教員らに、国家賠償法一条一項の過失があつたか否かについて検討する。

本件加害行為より前に春夫らの一郎に対するいわゆる「いじめ」が存在したことを認めるに足りないことは前記1のとおりであるから、原告らの訴訟代理人らの主張中、その存在を前提として被告の教育機関としての生徒に対する安全保持義務及び教育的配慮義務違反をいう部分は理由がない。

もつとも、前記二のとおり、一郎の死後発見された九月六日付の「先生」宛の手紙様の手記と思われる長文の紙片によれば、本件加害行為より前にも、一郎が暴行被害(加害者は不明)や種々の悩み等を抱えていたことがうかがえるが、右「手紙」は結局出されなかつたものと推認され、また、証拠上、本件加害行為以前に、一郎が田尻教諭その他の教諭らに自己の悩みを打ち明けて相談を持ちかけた形跡は認められず、さらに、右「手紙」に記載された悩み等の具体的内容等が不分明であるうえ、本件加害行為より前における一郎の学校生活の状況や教諭らの指導の状況等に関して格別の立証もないことなどからすると、田尻教諭ら中学校側が、本件加害行為より前における一郎の悩み等を掌握していなかつたからといつて、これを直ちに国家賠償法上の過失の前提となる義務違反とすることはできないものというべきである。

次に、原告らの訴訟代理人らは、本件加害行為に関し、一郎が田尻教諭に助けを求めた後も、中学校側が春夫に対して型どおりの指導や及び腰の説論等に終始して放置した旨主張するが、この点についても、以下に説示するとおり理由がない。

中学校側は、生徒から暴行被害の訴えがあつたような場合には、状況に応じて、被害生徒及び加害生徒並びにその他生徒らから事情を聴取するなどして、暴行の動機、内容、程度等の実態を正確に把握し、関係生徒を適正に指導説論するなど教育的配慮のために必要な措置をとるとともに、同種事故の再発を防止し、被害生徒にさらに危害が及ばないようにするなど生徒の安全保持のために必要な措置をとる義務があるものというべきところ、田尻教諭ら中学校側が、一郎の訴えにより、春夫らの一郎に対する加害行為の存在を知つた後の措置の内容は、前記一3乃至9のとおりであり、これら事実経過からすると、原告らの訴訟代理人ら主張のように、中学校側が春夫に対して型どおりの指導や及び腰の説論等に終始して放置していたものではないことが明らかであり、事態の進行に応じて施された指導説論その他の教育的配慮は、それなりに合理性があり、格別遺漏があるものとはいえない。

確かに、一郎から被害の訴えがあつた翌日、田尻教諭の春夫に対する指導説論の後、その日のうちに春夫の報復的な暴行がなされたことは事実であるが、この点については、同教諭は、一郎の被害の訴えが放課後であり、当日のうちに春夫と面談して事実確認や指導説論ができるような状況になかつたため、翌日朝これを実施し、その際、金銭の要求等について両者の言い分に食い違いがあることが判明し、さらに一郎にその点の確認をし、指導方法について学年主任と協議する必要を感じて、暴力について説論した後、一旦春夫を解放したものであり、結果として、春夫の短絡的かつ粗暴な行動を防止できなかつたことは否めないものの、ある種の試行錯誤は必然的に避け得ない教育現場において、当時の状況下で、春夫が報復に出るものと決めつけて直ちに春夫と一郎を隔離し、或いは春夫を何らかの処分に付すべきであつたとは、生徒の指導育成の見地からいつても妥当とはいいがたいところであり、同教諭に生徒の安全保持義務及び教育的配慮義務の違反に繋がる落ち度があつたとまでは評価し難い。

また、一郎の自殺について被告の責任を問うためには、田尻教諭ら中学校側において、本件加害行為当時、一郎の自殺を予見することができる状況(予見可能性)が存することが必要であるが、中学校側にとつては、従前の平穏な状況からすると、本件加害行為自体が突発的な出来事との印象があり、その経緯は、前記一2乃至8のとおり、春夫らによる一郎に対する一回目の暴行(火曜日)の翌日(水曜日)、二回目の暴行の後に田尻教諭ら中学校側の知るところとなり、三日目(木曜日)に春夫に対する指導説論が行われた後に三回目の暴行があり、再度春夫に対する指導説論が行われ、一郎に対しては激励がなされていたところ、四日目(金曜日)には一郎が行方不明となり、五日目(土曜日)に一郎が発見され(この間、春夫に対する指導説論が行われ、春夫に反省の色が見えてきていた)、六日目(日曜日)に一郎に対する指導配慮がなされ、七日目(月曜日)に登校した一郎が自殺したというものであり、本件加害行為の期間内容程度からみれば、この種の被害生徒は一時的に強い精神的苦痛を感ずるであろうことは推測できるとしても、一般的には被害生徒がこれだけを原因として直ちに自殺するものとは考え難いものといわざるを得ない。

むしろ、春夫の報復行動の後の田尻教諭ら中学校側の対応は相当に懇切なものであり、春夫にも反省の態度が見え始め、その指導説論の効果の程がいよいよ現実に試されるべき段階に至る前に、一郎が行方不明になり、自殺したものであり、本件加害行為の期間は最初の三日間、自殺は当初の暴行から一郎の行方不明の二日間及び日曜日を挟んで六日後という短期間の出来事であり、中学校側にとつては事態の進行はあまりに急であつたと思料される。

また、一郎が行方不明になつて発見された後の田尻教諭ら中学校側の一郎に対する対応についても、一郎の心情に相当配慮していたものと認められ、一郎の反応にも、日曜日の面談の際には同教諭に月曜日の時間割を問うなど、登校するかのような態度が見られており、一郎の両親である原告らも、自殺の当日、一郎の様子に何等の不審も感じなかつた程であるから、中学校側が一郎の自殺を全く予想だにしなかつたのも無理はないものというべきである。

結果的にみて、一郎が自殺してしまつたことからすると(自殺の動機については、他人には計り難い一郎の資質的性格的家庭的素因に加えて、一郎の隠された過去の暴行被害や種々の悩み等による心理的負担に、本件加害行為による苦悩がいわば最後の重圧となつたと推測するほかなく、それ以上は謎であるが)、原告ら及び中学校側は、一郎の真意を汲み取るに至つていなかつたといえ、また、今となつてみれば、前記「先生」宛の手紙様の手記の死に関する記述や、自殺の当日、登校時間になつてもぐずぐずし嘔吐の様子を見せていたことなどは、一郎の真意をかいま見せていたものとも評価し得るけれども、右一郎の真意に関する兆候がいずれも中学校側には顕在化していなかつたものであることや、前述した状況経緯などからする、やなり、中学校側に一郎の自殺の予見が可能であつたとすることはできない。

したがつて、一郎の自殺について、田尻教諭ら中学校側に原告らの訴訟代理人らが主張するような義務違反の存在は認めることはできない。

なお、原告らの訴訟代理人らは、一郎の自殺が予見不可能であるとしても、予備的に一郎が被つた精神的苦痛について、中学校側の義務違反の存在を主張するが、一郎が田尻教諭に春夫らの暴行を訴えたのに報復を受けたことによつてかなりの精神的衝撃を受けたであろうことは推測に難くないにしても、前述したとおり、当時の同教諭の置かれた状況からすると、同教諭の処置に法的な落ち度があつたものとまではいい難く、原告らに対して本件加害行為の実情が告げられたのが平成元年九月二九日午後になつてからであることについても、一郎の意向を尊重したもので、教育的配慮の一環として直ちに不合理なものとはいえないものであり、春夫の保護者に対する状況説明が一郎の自殺後になつた点についても、両者の言い分の相違等事実関係を詳しく掌握して後にしようとしていた中学校側の判断は、それなりの合理性も認められ、直ちに不当とは評価し難く、その他本件加害行為に関する一連の中学校側の対応についても前述したとおりであり、教育機関として損害賠償法上の法的義務に反するような落ち度があつたと認めるに足りるまでの事情は存在しない(もつとも、被告としては、損害賠償法上の責任はともかく、この種の事件に対する教育機関としての対応について、他によりよい方策がなかつたものかどうか、孤立しがちな生徒のあやうい心情をもつと日常に思いやることはできなかつたものかどうかを、さらに検討模索する必要があるように思われる)。

五  結論

以上によれば、一郎が未だ未成熟な心に一人苦悩を抱えて相談相手もなく孤独な死に赴いたことは、まことに痛ましい限りであり、両親である原告らの無念は察するにあまりあるけれども、少なくとも被告に対する損害賠償法上の責任は問えないものというほかない。

よつて、原告らの請求はいずれも理由がないから棄却し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 矢延正平 裁判官 徳岡由美子 裁判官 種村好子)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例